朝、珈琲を淹れながら思うことがある。
ドリッパーにお湯を注ぐとき、最初は少しだけ。豆全体が湿るくらい、ゆっくりと。そのまま30秒、待つ。この「蒸らし」の時間を省くと、珈琲はうまく抽出されない。豆の中のガスが抜けきらないまま、お湯が通り過ぎてしまうからだ。
急いでも、いいことはない。
介護の現場で、同じことを感じる場面がある。
家族が「早く決めなければ」と焦っているとき。施設を探さなければ、ケアマネを決めなければ、サービスを入れなければ——次々と課題が押し寄せて、蒸らす間もなく動き続けている。その姿を見るたびに、少し待ってほしいと思う。焦って注いだお湯は、豆の中を素通りしてしまう。
珈琲を淹れることと、介護に向き合うことには、共通点がいくつかあると思っている。

一つ目は「待つこと」だ。蒸らしの30秒がそうであるように、介護にも「今は待つ」という時間がある。本人がまだ気持ちを整理できていないとき、家族間でまだ意見がまとまっていないとき、専門職の判断を待つとき。その間に、焦って動いても、たいていうまくいかない。待つことは、何もしていないのではなく、次の一歩のための準備だと思っている。
二つ目は「丁寧さ」だ。珈琲は、お湯の温度・量・速さが少し変わるだけで、味が変わる。介護も、声かけの一言・関わり方の少しの違いで、本人の反応がまったく変わることがある。「早く」と言うか「ゆっくりでいいですよ」と言うか。その差は、紙一重のように見えて、本人にとっては大きな違いだったりする。丁寧さは、時間をかけることではなく、相手を見ていることだと思っている。
三つ目は「その人に合わせること」だ。同じ豆でも、浅煎りと深煎りでは最適な温度が違う。細挽きと粗挽きでは、お湯の通り方が違う。一つの正解があるわけではなく、その豆の状態に合わせて調整する必要がある。介護もそうで、「このケースにはこのサービス」という正解はなく、その人の状態・家族の状況・地域の資源によって、最適な形はいつも違う。型通りにやろうとすると、どこかで無理が出る。
珈琲を淹れるたびに、そんなことを思う。
ブログの名前に「珈琲」を入れたのは、介護の話を肩肘張らずに読んでほしかったからだ。珈琲一杯分の時間、少し立ち止まって、自分の親のこと、自分自身のことを考えてみてほしい。急いで答えを出さなくていい。蒸らす時間が、きっと必要だから。
珈琲が、少し冷めた。もう一杯、淹れよう。
メガネ

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