朝、ハンドドリップで珈琲を淹れる。豆の挽き目、湯の温度、注ぐ速さ。一つひとつは小さなことだが、揃って初めて、満足のいく一杯になる。
介護の現場は、これと少し似ているように思う。
歩けるか、立てるかという「体」の話。家族の関係や、暮らしを支える「福祉」の話。介護保険のサービスを組み立てる「制度」の話。お金が続くかという「経済」の話。家の中で安全に過ごせるかという「住まい」の話。
どれか一つだけでは、答えきれない問いが、家族から日々持ち込まれる。
私は十八年、介護の現場にいる。最初は理学療法士として体を見て、のちに社会福祉士として生活を見るようになった。並行して、介護支援専門員の資格でケアプランの仕組みを学び、あとから、お金のことも、住まいのことも、少しずつ学んだ。
並べてみると、なんだか資格が多い。けれど、一つずつ取ったのは、現場で**「これも分からないと、家族の相談に答えきれない」**と感じたからだった。
たとえば、「父が転んでしまって。施設に入れたほうがいいでしょうか」と相談を受けるとき。体のことは理学療法士の眼鏡で見て、生活のことは社会福祉士の眼鏡で見る。制度のことはケアマネジメントの眼鏡で。お金が続くかどうかは、ファイナンシャルプランナーの眼鏡で。家の中で安全に過ごせるかは、福祉住環境コーディネーターの眼鏡で。

眼鏡を架け替えるように、相談ごとを見る角度を変えていく。すると、家族にとっての最善が、少しずつ見えてくる。
資格が多いのは、自分が知らないことを、目の前の家族に**「分かりません」と返さずに済むため**だけだ。「分かりません」と返された相談に、家族がどれだけ立ちすくむかを、現場で何度も見てきたから。
それでも、答えに迷う日はある。家族の事情はひとつひとつ違っていて、教科書通りに収まらない。
——眼鏡が五つあっても、見えないものは見えない。そういう日は、もう一杯、珈琲を淹れる。
メガネ

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