「夜、落ち着かれないことが増えていまして……」
施設からこう電話がかかってきた夜、ご家族はたいてい眠れなくなります。次に何を言われるのだろう、そうなったらこの人はどこへ行けばいいのだろう、と。
先に、いちばん大事なことを書きます。そうなったのは、ご家族の選び方が間違っていたからではありません。そして、ご本人が困った人だからでもありません。夜に眠れないことにも、外に出ようとすることにも、ご本人の側にはちゃんと理由があります。ただ、その理由に施設の体制が追いつかない時間帯がある——それだけの話です。
この記事では、老健(介護老人保健施設)の支援相談員として、どんな場面で退所の話が出るのか、なぜ出るのか、言われる前にできることを正直に書きます。

先に結論だけ。行き先がゼロになることは、まずありません。私は18年の現場で、行き先が見つからないまま終わったご家族に会ったことがありません。
夜がいちばん長かった——たえこさんの三か月
たえこさん(仮名・55歳)のお母さんは、骨折の手術のあと、リハビリ目的で老健に入所しました。入院中に認知症の症状がはっきりしてきて、退院時には「見当識(今どこにいて、いつなのかを把握する力)が落ちています」と説明を受けていました。
入所して1か月ほど経った頃から、施設からの電話が増えました。夜中に廊下を歩いている。玄関で「家に帰ります」と言っている。たえこさんは電話が鳴るたびに謝りました。「すみません、母がご迷惑を……」。
でも面談で私たちが聞いたお母さんの話は、少し違うものでした。お母さんは長く民生委員をしていて、夕方になると「町内を回らなきゃ」と立ち上がる方だったのです。
夜に歩き回っていたのではなく、夕方に「仕事に行こう」としていた。それが分かってから関わり方は変わりましたが、夜勤帯の人手が増えるわけではありません。三か月目の面談で私は「このままの体制でお預かりし続けるのが難しくなるかもしれません」と、初めてはっきりお伝えすることになりました。
たえこさんは黙ったあと、こう言いました。「母は、迷惑な人になってしまったんでしょうか」。この一言が、今でも忘れられません。
どんな場面で「退所」の話が出るのか
曖昧にせず、事実として整理します。現場で退所の相談が始まりやすいのは、次のような場面です。読むのがつらい方は飛ばしてかまいません。
・夜間に眠れず動き回る時間が長く、転倒の危険が続いている
・他の入所者の居室に入るなどして、相手の方との間にトラブルが起きている
・玄関や非常口から外に出ようとする行動が繰り返される
・他の方やスタッフに手が出てしまう場面がある
・点滴や酸素など、老健の体制では続けにくい医療的な対応が必要になった
大切なのは、これが「問題行動のリスト」ではないということです。夜に歩くのは痛みや便秘や不安のせいかもしれません。外に出ようとするのは、帰る場所がある人として当たり前の行動です。手が出るのは、言葉で伝えられない不快さが限界を超えたサインであることが多い。



現場ではこれらをBPSD(認知症にともなう行動・心理症状)と呼びます。
意味はシンプルで「本人の困りごとと環境が噛み合わないときに出る反応」。性格や人格の問題ではなく、環境との相性の話です。
なぜ施設は「見られません」と言うのか
では、そういう理解があるのに、なぜ施設は退所の相談を持ち出すのか。施設の内側の事情を、正直に書きます。


1. 夜間の職員体制が、日中とはまるで違う
これが最大の理由です。日中はたくさんのスタッフがいる施設でも、夜勤帯は1フロアを1〜2人で見ていることが珍しくありません。
その状態で、夜に見守りが要る方が同時に何人もいると、どうなるか。誰かに付いている間、他の方の転倒を防げない時間が生まれます。これは職員の努力ややる気で埋められる差ではなく、人数の話です。
2. 老健は、認知症の専門施設ではない
老健は本来、病院と自宅の間でリハビリをして在宅復帰を目指す中間施設です。医師や看護職、リハビリ職がいる強みはありますが、認知症ケアを専門とした構造では作られていません。9人ほどの単位でなじみの職員と暮らすグループホーム(認知症対応型共同生活介護)とは、設計思想が違います。
3. 他の入所者の安全との兼ね合いがある
施設は共同生活の場で、ある方の行動が他の方の睡眠や安全に影響しているとき、施設は両方を守る責任を負っています。どちらかを選ぶ話ではなく、どちらも守れなくなったときに相談という形で表に出てきます。
はっきり書いておきます。これは人手と構造の問題であって、ご本人の価値の問題ではありません。「もう見られません」を翻訳すると「この人数と、この建物では、この方の安全を守りきる自信がありません」という意味です。



相談員として、あの言葉を口にするときが仕事でいちばん苦しい瞬間です。言っている側も、負けたような気持ちでいます。
言われる前にできること4つ


ここからが、この記事でいちばん書きたかったところです。退所の相談は突然降ってくるように見えて、実は前段階があります。その手前でできることが、いくつもあります。
1. 入所前に、ご本人の状態を正直に伝えておく
「言ったら断られるのでは」と思って、夜間の様子を控えめに伝えるご家族は少なくありません。断られたら次がない、という状況で臨まれているのですから、当然だと思います。
ただ現場の実感として、伏せて入所した方が、結果的に早く行き詰まります。施設は日中の様子だけを想定して人の配置や部屋を決めるため、想定外の夜が始まると打つ手がなくなるのです。最初から分かっていれば「夜勤者の動線に近い居室に」といった調整を、入所の時点から組み込めます。



【入所前の面談で】「夕方から落ち着かなくなることがあります。家ではこう対応していました。こちらでは対応が難しそうでしょうか、先に相談させてください」
2. 家庭でのやり方を、そのまま施設に渡す
ご家族が家で自然にやっていた工夫は、専門職から見ると立派なケア技術です。何時に寝起きしていたか、どんな言葉かけだと落ち着いたか。こうした情報が最初からあると、施設は試行錯誤の期間を数週間短縮できます。
A4用紙1枚にまとめて渡すだけで十分です。「うちの母の取扱説明書です」と持ってきてくださったご家族がいて、あれは本当にありがたいものでした。
・一日の生活リズム(起床・食事・就寝の時間、昼寝の習慣)
・落ち着く言葉かけと、地雷になる言い方
・仕事や役割の記憶(「町内を回る」「畑に行く」など、行動の理由になっているもの)
・好きな飲み物・音楽・番組、苦手な音や場所
・家で夜に落ち着かなくなったとき、どう対応していたか
3. 早い段階で、相談員に「気になっていること」を聞いておく
多くのご家族は施設から連絡が来るまで待ってしまいます。でも相談員の側には「連絡するほどではないけれど気になっている」段階の情報がたいていあります。月1回でも聞いておくだけで、退所の相談がいきなり出てくる可能性は下がります。



【面談や面会のときに】「まだ連絡いただくほどではないけれど、気になっていることってありますか? 早めに知っておきたいので」
4. 薬や環境の調整で、変わる場合がある
夜の落ち着かなさの背景に、痛み、便秘、脱水、不眠、服用中の薬の影響が隠れていることがあります。老健には医師が配置されているので、こうした相談ができるのは強みのひとつです。日中に光を浴びる、夕方の居場所を変える、居室を移す——環境の調整で落ち着く方もいます。



ただし、薬の変更や中止は医師の判断であり、ご家族や施設職員が決めるものではありません。
効果には個人差があります。それでも「打つ手が残っている」と知っているだけで、待つ時間の質は変わると思っています。
もう言われてしまった、というときの選択肢
すでに退所の話が出てしまった方も、この記事を読んでいるかもしれません。その場合でも道は一本ではありません。現場で実際に使われている行き先を挙げます。
・グループホーム——9人ほどの小規模な単位で、認知症のケアを前提に作られた場所
・精神科病院での一時的な調整入院——薬や生活リズムを整えて次に移る、仕切り直しの期間
・別の老健——認知症ケアに力を入れた施設や夜勤体制の手厚い施設は、地域ごとに差があります
・特別養護老人ホーム(特養)——認知症の程度が入所の優先順位で考慮される場合があります
・在宅+サービス——小規模多機能型居宅介護など、通い・泊まり・訪問を一体で使う仕組みも
どれが合うかは地域の事情とご本人の状態で変わります。ただ、探すのはご家族だけの仕事ではありません。退所先の調整は相談員の本来業務で、担当のケアマネジャーや地域包括支援センターも動きます。



【退所の話が出たときに】「行き先を一緒に探していただけますか。うちだけでは地域の事情が分からないので、候補を出すところからお願いしたいです」
相談員の、本当のところ
たえこさんの「母は、迷惑な人になってしまったんでしょうか」という問いに、私はうまく答えられませんでした。夕方に立ち上がるお母さんは、40年間まじめに町内を回り続けた人のままです。変わったのは、その律儀さを受け止められる場所が、たまたま今いる建物ではなかったというだけでした。
その後お母さんはグループホームに移りました。夕方になると今も立ち上がるそうですが、そこでは職員が一緒に近所を一周してくれるのだと聞きました。同じ行動が、場所が変わるだけで、困りごとではなく日課になったのです。



合わなかったのは、人ではなく場所の方だった——そう思える事例を、私は何度も見てきました。
まとめ
・夜の行動も外に出ようとする行動も、ご本人の側に理由がある反応。性格や人格の問題ではない
・退所の相談が出るのは、夜勤帯の人数と建物の構造という施設側の事情から
・「見られません」は人の価値の話ではなく、この体制では守りきれないという意味
・入所前に状態を正直に伝えると、居室や見守りの配置を最初から組める
・生活リズムと言葉かけをA4用紙1枚で渡すと、施設の試行錯誤の期間が縮まる
・痛み・便秘・不眠・薬の影響が背景にあることも(調整の可否は医師の判断)
・言われてしまっても、グループホーム・調整入院・別の老健・特養・在宅と道は残っている



珈琲一杯分の時間、お付き合いいただきありがとうございました。
メガネ
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よくある質問


Q. 認知症を理由に、施設は一方的に退所させられるのですか?
契約上の解約事由に該当する場合を除き、その日に出てくださいという形にはならないのが一般的です。多くは面談を重ねながら次の行き先を調整していきます。退所先が決まらないまま放り出される形は、運営基準の観点からも想定されていません。
Q. 夜に落ち着かないだけで退所になりますか?
その一点だけで話が進むことは多くありません。転倒の危険が続いている、他の方の安全に影響が出ている、といった要素が重なったときに相談が始まる印象です。早い段階で医師の診察や環境の調整につなげられると、そこまで至らずに済む場合もあります。
Q. 入所前に認知症の症状を伝えると、断られませんか?
伝えたことで断られる場合はたしかにあります。ただ、伏せて入所すると数か月後に同じ問題が、より打つ手の少ない形で表面化します。現場の感覚では、最初に共有していただいた方が結果的に長くお預かりできています。
出典・参考
- 厚生労働省「介護老人保健施設の人員、施設及び設備並びに運営に関する基準」
- 厚生労働省「認知症施策推進大綱」および認知症疾患医療センター関連資料
- 厚生労働省「介護老人保健施設の基本報酬及び加算について」(令和6年度介護報酬改定)
- 介護サービス情報公表システム(kaigokensaku.mhlw.go.jp)
※制度の要件・人員基準は令和6年度介護報酬改定時点の情報です。夜間の職員配置や受け入れ可能な状態像は施設によって異なります。薬や治療の判断は主治医に、最新情報は担当ケアマネまたは市区町村にご確認ください。
最終更新日:2026年9月






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